この藤を育てた梶本昌弘さんが、花咲か爺さんと呼ばれるようになった経緯を辿ってみましょう。
それは、SENNANまちづくり市民会議という市民団体が主催した、文化フォーラムのパネラーとして参加した、平成16年10月のことでした。 当日は、滋賀県長浜市・黒壁スクエアの「賑わいまちづくり」の中心的役割を担い成功に導かれた、国交省認定の観光カリスマである笹原史朗さんに基調講演して頂きました。 続く「熊野街道まちおこし」のパネルディスカッションに、パネラーとして参加した昌弘さんの発言を録音テープから再現してみましょう。
開口一番『実感として幸せだなぁ~~よう熊野街道筋に生まれてきたもんや、世界遺産の参詣道に繋がる、その街道沿いに住んでいる私の喜びと夢と希望と、最後にずっしりと責任感がのしかかっております。大苗代・市場・牧野・岡中と続く信達宿のふんどしまち、昔懐かしい情景を求めるのは、今は無理かもしれないが、熊野街道らしいムードが出せたらいいなあ、みんなの力で絶対に恥ずかしくないまちをつくりたいのです。今日も皆さんにお願いしたい、厚かましいのですが、隣の人と手を繋いでくださいませんか、お願いします。今、手を繋いだことを忘れないように、隣の人に広げてください、道を通る人にも広げてください。そして素晴らしいまちに再生しようではありませんか!』 『悔いのない人生、みんなと共に精一杯生きて行きたいというのが、私の信条です。たまたま家の隅に植えた、根のついた生け花の藤が、愛情が行き過ぎ沢山花房をつけるようになりました。街道名物にしようなんて積りでしたことではないんです。でも口伝えで多くの方が藤を求めて来られます。今年は一万五千人を超えました。近所の皆さんにはごっつう迷惑をかけてしまうんです。すまんなあと思いながら嘆きと喜びが交差してなんとも言えないのですが、取り敢えず来た人に感動を与えます。”ハイ!こちらに行きましたら角谷さんの資料館がございますよ。そこで本陣の資料を見て熊野街道の歴史を味わってください。こちらの方に行ったら泉州名物が賞味できるお店がありますよ!” こんな賑わいが出現します。 最後に頼んでおきたいのは、私の寿命は限られていますので、保存会を結成して、ときどき来て藤の手入れを覚えてもらって、うちの藤をみんなの力でより良く咲かせてもらおうと考えています。 ”この藤を訪ねる人にやすらぎを、去り行く人に幸せを” 世界遺産の熊野街道が光り輝く道に地元の力で何とかしたいと思います。どうぞお助けくださいませ』
この昌弘さんの発言を聞いた、コーディネーターの中尾先生(当時:大阪観光大学教授)が 『いやぁ~梶本さんは、平成の花咲じじいやな~』 と発言! 以降みんなから「平成の花咲かじいさん!」と呼ばれるようになったのでした。